2021-03-01

別冊太陽 科学絵本の世界100

 あをぐみがエディトリアルデザインを担当した『科学絵本の世界100 学びをもっと楽しくする』(別冊太陽 日本のこころ 286/平凡社刊)が、先月発行されました。


昨年デザインを担当した『別冊太陽 五味太郎』に続いて、奇しくも絵本関連の特集を担うことになり、コロナ禍のこの1年のあいだは、たくさんの絵本を読みふけりました。
ちなみにこの『科学絵本の世界100』でも、五味さんの作品が紹介されています。

コロナの影響か、自分がオジサンになったからなのか、こどものころはゲラゲラ笑って読んでいた本も、あらためて読み直すとなぜか泣けてしまったりと、いろいろな気持ちが込みあげてきます。読んだ本に勇気づけられたり励まされたり。そうやって心に不思議なエネルギーが渦巻くなか、いつもとはちょっと違うテンションでデザインする日々でした。

そうやってできた本書。画家で絵本作家の堀川理万子さんに描き下ろしていただいたキャラクターたちのおかげで、多種多様な「科学絵本」というジャンルにうまく統一感をもたせることができ、楽しい一冊に仕上がっています。

掲載の絵本は名作ばかりなので、これをガイドブックとして、気に入った科学絵本もあわせて手に取っていただければ、とてもうれしいです。(ä)

2021-02-22

あをぐみÖの読書日記「文学ムック ことばと VOL.1」

これまで文学誌やムックの類をほとんど読んでこなかったのだけど、たまには、と手に取ったのがこちら。去年の春に創刊したばかりだそうです。



新創刊するからには「既存にはないものを」という意図が込められているんだろうけれど、ウォッチャーではないのでそこはスルー。掲載されているものをフツーに受け取るだけでしたが、普段読み慣れないだけに、「文学ムックって中学校みたいだ」と思いました。要するに、自分で選んでいない人たちに囲まれるというか、ありとあらゆる人種が入り混じっている空間に放り込まれた気分がしたのです。
そこには気の合いそうなヤツもいれば、受け付け難いヤツもいる。偶然の出会い。ここから生涯の友が見つかるかもしれない。うん、小学校や高校とも違う、まさに中学校のクラスの感じ。

おもしろいのは、フツーの日常を書いているだけなのに、彼岸と此岸くらいの距離を感じる物語もあれば、全くの異世界や自分とはかけ離れた人物の話なのに、ものすごく近いものを感じる物語もあるということ。
いろいろな話が一緒くたになったムックだからこそ、違いが鮮明に迫ってきます。ビールを飲んだ直後に違うビールを飲むと、味の違いがより明確になる、というのと似てるかな(ちがうか?)。

美術ウォッチャーのÖとしては、福田尚代さんの見事な回文が冒頭に載っていたのが嬉しかった。これほんと、アートです。ムックでのこの作品の肩書き(?)が「表現」となっていたことに、ある種の感動を覚えました。

ムックとか文芸誌、たまには読んでみるものですね。大人になると新しい友人がつくりづらいといいますが、好きな人とだけ付き合っていないで、たまには「蓋を開けるまでわからん」という場に行ってみるのも新鮮。新たな出会いを得て、my 読書生活がイキイキしてきました。
あ、このムック、もう vol.2 が出てるみたいです。(ö)

文学ムック『ことばと』vol.1
発行:書肆侃侃房
編集長:佐々木敦

2021-02-10

ミヒャエル・ボレマンス マーク・マンダース|ダブル・サイレンス@金沢21世紀美術館

 タイトルのとおり2人の美術家による展覧会ですが、これまで一緒にやってきたとかコラボの機会が多かったわけではなく、意外にも接点はないんだそうで……ではなぜこの組み合わせ? オランダとベルギーで出身国も違うし、主に彫刻で表現するマンダースと、絵画のボレマンスとではメディアも違う。ふーむ。。


ともあれ、この展覧会のだいぶ以前から、ボレマンスファンのあをぐみÖ。実はパソコンの壁紙は彼の絵画なのです。ふふ。そういうわけでその作品が見られる機会を見逃すまいと、早速GO!



以下すべて主催者の許可を得て撮影しています。

 美術館の人の話では、コロナの影響で2人とも訪日がかなわず、オンラインによる指示で展覧会準備を進めたそう。あれだけの広い会場を、「この作品はもう少しこちらに向けて」とかパソコン越しにやりとりするのって……作家も美術館スタッフも、相当シンドかっただろうなあ。

 マンダース彫刻の置かれた床に砂のようなものが落ちていて、「壊れちゃった?」と一瞬焦るのですが、実はこれも作品の一部(写真では見づらいと思いますが)。この散らばしかたもマンダースのオンラインによる指示(「もう少し広い範囲にばら撒いてね」みたいな感じ)で、美術館スタッフが再現したものなんだって。ひゃー。



それにしても、2人の作品はどちらもイメージは強烈なのに(例えば、ピンクのドレスで着飾った女性が真っ黒く顔を塗られていたり(=ボレマンス)、女性の頭頂に楔のような板が打ち込まれていたり(=マンダース)など)、その激しさに反比例するような静けさや、時が凍ったような感覚を生じさせます。それら個々の作品が出す無音のバイブレーションが不思議に共鳴している気がしたので、意識してその”共鳴・呼応”に耳を澄ませてみることにしました。

 そのうち、作品同士は何を語り合っている?とか、なぜ「ダブル・サイレンス」なの?という問いや想像は、いつしか内面に向かい、自分と対峙する静かな時間に。会場を出る頃には何だか清々しい気分になってて、あ〜、わたし、こういう時間を必要としていたんだなあ、としみじみ。



そうそう、この展覧会に合わせたのかは不明ですが、3月から東京都現代美術館でマンダースの国内初個展が行われます。行かなきゃ!(ö)

展覧会情報はこちら

会期:~2/28
休:月曜
観覧料:当日一般¥1,000ほか

2021-01-16

あをぐみÖの読書日記「むらさきのスカートの女」

コロナ大爆発の昨今。またもや引きこもっての読書生活がはじまっています。で、読んだのが2019年の芥川賞を獲った、今村夏子さんの著書。掲載は表題作のみなので、まあまあ長いお話です。


最初は「むらさきのスカート」「黄色のカーディガン」は何のメタファー??と、いちいち立ち止まりながら読んでいたけれど、書かれたものを文字どおり受け取るべしという結論に早々に至りました。文体も言葉も平易でとにかく読みやすいから、自ら立ち止まらなければストーリーはスイスイと流れていきます。

が、軽く読めてしまう割には謎が多すぎ。わたくしは途中まで、物語の主人公(語り手)は「監視カメラの向こうの人」かなと思ったりしてましたもん(村上春樹『アフターダーク』的な感じ)。読み進めていくと苗字が出てくるので「人だった」とわかるのですが、それでもしばらく読むと、やっぱり”見えない複数の存在”なんじゃないか、などと疑ったりしてしまう。

だって、一人の人間に常につきまとってもバレない・看破られないなんて、フツー無理だもの。街中に仕掛けられた監視カメラが主人公(語り手)と言われた方がしっくりくるほど、主人公は「むらさきのスカートの女」にひたすら迫る。ところどころ「ユーモア?」と思えるシーンもあるけど、それがいっそう、人間が人間につきまとうことの怖さを際立たせます。

そして、読んでいるうちにどんどん作家が心配になってくる。病みの度合いがズーンと深いのです。簡単には救い出せないところにいて、誰の手も届かないのではないかと不安になってしまいました。作家は違うけど、以前『コンビニ人間』(村田沙耶香・著)を読んだ時も似たような不安に陥りましたが、これもまたそれと同等。いやむしろ、より深いぞ、病み(闇ではない)が。

前に同じ今村さんの『星の子』(映画にもなりましたね)を読んだときは、ここまでの病みを感じなかったけど、それは主人公はともかく、その両親が変という構図だったからかも。今回のは主人公の深度がすごい。

……この物語は果たして恋愛? 観察日記? 狂気?


『むらさきのスカートの女』
著者:今村夏子
発行:朝日新聞出版
第161回芥川賞受賞作

2021-01-06

10年めー

新年が明けて1週間近く経ちました。

「おめでとうございま〜す!」と素直に寿げない事態となり、悶々とした年明けとなってしまいました。ワクチンが行き渡り、コロナが終息するのは2〜3年後ではないかと思うと……はあ、気が重くなります。

と、こんな出だしでなんですが、あをぐみはこの2021年で創立10年目に入りました。

東京・港区で蒔いたタネは長野県・松本で育ち、どうにかこうにか10年。できたこととできなかったこといろいろひっくるめて、もう10年、です。

これは常套句でもなんでもなく、本当に素直に「みなさんのおかげ」で今ここにいられるわけで、ご縁に深く深く感謝しております。ありがとうございます。この場をお借りし、深く深く感謝。

とにもかくにもあをぐみは次の10年に踏み出したので、コロナだからといって落ち込んでばかりはいられません。これからも華麗に暴走していきたいと、気持ちを新たにしています(お、ようやく新年らしい雰囲気になってきました)。

見ててね〜!(äwö)



2020-12-27

街を言葉にすること。「街歩きエッセイ講座」

「美しい景観に対する意識の高揚と、良好な景観形成に向けた市民のまちづくり活動の推進を図るため」(役所らしい文章ですなあ)に、松本市が年に1回開催している『景観賞』。そのスピンオフ企画としてはじまった「街歩きエッセイ講座」を、あをぐみÖが担当しています。

どんなことをするのかというと、まずは街歩き。2時間ほど市街地を歩いて好きな景色やまちなみを撮影し、その写真を添えたエッセイを書いて発表するわけです。景観賞への応募促進を目論んで例年は初夏に行っていたのですが、今年はコロナのため延期。中止も危ぶまれましたが、なんとか半年遅れの12月に実施できました。


いつもだと班にわかれ、それぞれ違うコースを歩いていましたが、今年は密にならない人数での開催ということもあり、参加者全員が同じコースをぶらぶら。クリスマスの雰囲気漂う通りから路地裏まで、松本城周辺をのんびり歩きました。

女鳥羽川の近くでマーケットが行われていて雰囲気を盛りあげます。朝で開催前でしたが、広場の真ん中にツリーがたてられ、華やぎと年末感たっぷり。街ゆく人もみんな笑顔。


午前中をかけて楽しく街を歩いたあと、午後は机に向かってエッセイをしたためます。

参加者同士、撮った写真を披露し合いながら何を書こうか思案。SNSなどで自分の言葉を書くことに慣れた人も多かったようですが、長文…しかもエッセイとなると別問題で、最初はみなさん頭を抱えています。題材を固めるまでのこの時間が一番長〜い。あれもいいなこれもいいなの迷いを経ていざ書き始めると、意外とあっという間だったりします。


毎年毎年、参加者のエッセイのレベルがぐんぐんあがっていて、今年もまるで短編小説のような読後感を残す佳作が誕生し、感激。あをぐみÖとしても負けてらんな〜いという気分になってしまいます。同じ道を歩いても、みんなそれぞれが違うことを想い、違う景色をそこに見ているのだなあと実感。住んでいる街の風景だからこそ、あらためて見直すといろいろな思いが胸に去来し、文章がひとりでに流れていくようでした。

この講座にはフェイスブックがあり、今回の作品もそこで公表されることになっています。アップの日時は担当のYさんの頑張り次第ですが、過去の講座のエッセイも読めるので、ぜひ訪れてみてください。

実はこのエッセイ講座、新市長の新体制による「しわけ」の候補になっているようなので、来年以降の開催は不明。何らかのカタチで続けていけるようにしたいなあとは思っています。(ö)

2020-12-20

GIGA・MANGA 江戸戯画から近代漫画へ@すみだ北斎美術館

 日本といえば「フジヤマ・ゲイシャ」だった時代はとっくに終わり、今や「アニメ・マンガ」、その後に「スシ」といったところでしょうか……。で、そのマンガの変遷を、江戸時代の浮世絵版画からじっくりたっぷり見られるのが、この展覧会です。


以下、写真はすべて許可を得て撮影しています。

 期間中に2回の展示替えがあり、ここで紹介しているのはもう終わっちゃった前期のもの。今は中期展(〜1月3日)で、5日からは後期展。全部見れば、漫画の博士号がとれるんじゃないかっていうくらいの密度(総数約270点!)です。展示物の文字情報も多いだけに、隈なく見ていたらあっという間に時が過ぎ、脚はガタガタ腰はヒリヒリで疲労困憊セグンド、ふう。そのぶん漫画史をしっかり体感でき、大充実でした。

 改めて思ったのは、漫画はジャーナリズムであり世相の鏡だなあということ。新聞漫画がいい例ですが、単行本や週刊誌のストーリー漫画もやはり、今という時代を反映したメディアですもんね。

 江戸時代の諷刺表現である”戯画”。幕府の改革や動乱をテーマにしたもののなかには、辛辣に幕府批判をしているものもあり、思ったよりは言論が自由だったのかも(あ、でも河鍋暁斎とか投獄されてたか。。)。



 明治・大正時代の諷刺漫画雑誌には、意外な人が意外な画風で作品を寄せていたり。たとえば光線画で有名な小林清親に、キラキラした美しい版画世界とはまた違ったドギツイ皮肉な作品があって、思わず笑っちゃいました。

 北斎の美術館ということで、かの有名な『北斎漫画』も見られますが、この場合の”漫画”は、今でいう漫画とは意味合いがちょっと違い、「北斎が漫然とえがいたもの」という意味なんだそう。
最後にちょっとした雑学でした。(ö)

展覧会情報はこちら

会期:~2021年1月24日
休:月曜(1/11は開場)、12/29~1/1、1/12
観覧料:当日一般¥1,200ほか

2020-12-13

舟越 桂 私の中にある泉@渋谷区立松濤美術館

 一瞬で人心をつかんでしまう舟越さんの彫刻像。先ごろ渋谷で始まったこの展覧会では、どうやってその唯一無二性が育まれていったのかの手がかりが得られます。まだ学生の頃に手掛けた試作から新作までが時系列で見られるうえ、鑿を持つ前に何度も描くというドローイングや、書き留められたメモといった、作品の源泉に迫るような資料的展示が多々。芸術一家である舟越家のほかのメンバーによるデッサンなども、興味深いものでした。やはり人は一人で立っているわけではないし、ひとりでに自分に成っていくわけでもないのだと、しみじみ。

 大理石の目を入れる契機となった試作のマスクも興味深い一品。目をもつと、作品自身から”意思”みたいなものが発せられるようです。焦点はあっていないし、どこか虚な感じもする”目”。でも、入っているといないとでは段違いでした。


写真は、舟越さんのアトリエを再現した一角(以下すべて主催者の許可を得て撮影しています)。

 ところで彫刻像には、例えば夜、誰もいなくなった美術館で他の彫像と話し始めそうなコミュニケーション好きなものもあれば、孤高のオーラを発するものもありますが、舟越作品は後者。特にこの展覧会の第一会場に居る作品は、独り立ちどまり、思索する人々ばかりです。が、第一会場の終わりのあたりから2階の第二会場の作品は、どちらかというと「ものを語ること」を使命にしているのでは?と思うような雰囲気を纏っています。第1章で内を向いていた問いが、第二章で外に向かいはじめたか。

 代表作であるスフィンクスシリーズは、その良い例かと。「人間に謎をかけるスフィンクスは、謎をかけるくらい人間のことをよく見ている」というようなことを舟越さんが言っていますが、なるほどつまりその問いは、単なる質問ではなく問わずにはいられない根源的な謎であり、問うことで人を立ち止まらせ考え直させたいという、スフィンクスの断罪意識を含んだ重いものなのか。

 舟越作品には珍しく厳しい表情をした《戦争をみるスフィンクスⅡ》に対峙したとき、その愛ある重い問いを感じてぐっときました。こうした問いやメッセージを多分に含んでいるから、舟越作品は一貫して人間の姿をカタチにしつつ、「人ではない何か」と「強烈な人らしさ」を同時に感じさせるのだろうなあ。


こちらは2020年の新作《スフィンクスには何を問うか?》。

 と、ひととおり展覧会を見て、舟越さんをわかったような気でいたのですが、ひとり、そんなわたしのうわべの理解感を打ち破る作品が。それがこの人。


《森へ行く日》(1984年)

初期作品のひとつで、何気なく見てスルーしてしまうところだったのですが、この肩からの帯状の黒いものについて、「粘り気のある黒いものをつけたかったのでゴムを選んだ」というようなことを舟越さんがコメントしているのを読み、ガーンと衝撃。なぜねばねばした黒いものを、この人の肩につけたかったのか……。美術館を去り、松本へ戻る車窓の夜景を見ながらもまだ、ずっとそのことが頭から離れませんでした。(ö)

展覧会情報はこちら

会期:~2021年1/31
休:月曜(1/11は開館)、12/29~1/3、1/12 
観覧料:当日一般¥500ほか

2020-12-07

琳派と印象派@アーティゾン美術館

だいぶキャラの異なるスクール同士を組み合わせたなあと、興味津々で出かけた展覧会。時代をみても、琳派は宗達の時代を含めれば1600年前後からで、印象派はモネの《印象、日の出》が描かれたのが1873年と、2、300年近く違うし……。

(写真は以下、すべて主催者の許可を得て撮影しています)



で、やはり最初は違和感。浮世絵ほど線的ではないものの、平面的で装飾的な琳派と、題材は身近で、光で見え方の変わる様を捉えようとした印象派とが、どうにも同じ空間に納まらない気がしたのです。 

でも、この展覧会のキーワードが「都市文化」だと知ってからは(サブタイトルになってた…)眼鏡が変わったかのように見える世界が変わりました。なるほど、京都で興り江戸に続いた琳派と、パリで生まれた印象派は、同じ都市文化という土壌に咲く花なわけだ。限られた人しか享受できなかった琳派と、ギャラリーなどで衆目を驚かせ楽しませた印象派とを全く同じには論じられないものの、「大都市ならではの洗練された美意識の到達点(同展サイトより)」と考えると、相違さえ楽しく立ちあがってきます。


ところで、この展覧会は主に同館のコレクションで構成されていますが、所蔵品をどう斬るかって、その美術館(の学芸員)のセンスですねー。作品数に限りがあり、人気作ばかり出しても飽きられる……あまたの制約のもとでいかに面白い視点を与えられるか……なかなかの難問です。だからこそ琳派と印象派という一見相容れないものを並べ、鮮やかに見直させるのは編集の妙であり、あをぐみÖ的にも学ぶところ大でした。

そうそう、この展覧会で初お目見したアーティゾンの新所蔵品、尾形光琳の《孔雀立葵図屛風》(重要文化財)は MUST SEE!(ö)

展覧会情報はこちら

会期:~2021年1/24
休:月曜(1/11は開館)、12/28~1/4、1/12
観覧料:当日一般¥1,700ほか

2020-11-28

石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか@東京都現代美術館

今までどうして開催されなかったのかなあと思ってきたほど、待望の展覧会でした。書籍や作品集もいいけど、この人の世界観は大きな空間で体感したかったので早速GO! 

石岡さんといえば、真っ先に思い浮かぶのがターセム・シン監督の映画です、個人的には。数作品あるけど、やはり『落下の王国』(これはÖが愛するベストムービー)。石岡作品がシン監督の世界観をより強固にしていて、ホントため息もの。展覧会では壁一面に映像が投影されていて、迫力満点でした。プロダクションの倒産で作品が見られないのが心底悔しいわ。

とはいえ映画衣装は石岡作品のほんの一端に過ぎず、ポスターや書籍などのグラフィックにはじまり、オペラ、演劇、サーカス、ミュージック・ビデオ、オリンピックのプロジェクトなどなど、作品の幅広さとメジャー度が圧倒的。一人の人間がこれほど多岐のプロジェクトにかかわり、そのすべてにおいて高いクオリティで答えを出していることに唖然とするほどです。そりゃあもう、見ているうちに冷や汗をかくくらいの。

写真はビョークとのコラボ作品の部屋(主催者の許可を得て撮影しています)。


この展覧会の一番の見どころは、働く女としての気迫かもなあ。自らの責任に対する真摯さ、かっこよさ。「サバイブ」が口癖だったという石岡さんの仕事ぶり……いや、生きている意味を事態を自問するようなあり方が胸に迫ります。お前はどうなんだと問われているようで、首をがっくりと垂れるしかありません。。。なさけなや。(ö)

展覧会情報はこちら。会期:~2021年2/14 

休:月曜(1/11は開館)、12/28~2021年1/1、1/12 
観覧料:当日一般¥1,800ほか

2020-07-28

別冊太陽 五味太郎

「先のことなんて誰にもわからんぞ」と何処を見るでもなく、運転席からぽつりと年老いた父親が言った。ふだん口にしないような声色で。
事務所へ立ち寄った両親の車を見送る際、未来に対して少し後ろ向きなことを言った僕へと投げ掛けられたひと言。いや、あの声色は、父自身もふくめたあらゆる人に向けた言葉だったのかもしれない。

不意打ちだったから真意を問うこともできず、手を振る向こうへと車はゆっくり発進した。ぼんやりとエンジン音が消えていくその場で、僕は反芻した。あの言葉から、ネガティブな気配はまったく感じられなかった。

父は数年におよぶ治療を終えて癌を克服したばかりだが、他にも持病がある。報道されている情報を鵜呑みにするならば、万が一かのウィルスに感染したら、そこには絶望しか見当たりそうにもない。……今まで感じたことのない怖れが僕をうつむかせる。思い返しても、これまでこんな恐怖と背中合わせで生きてきたことは、一度もない。感染におびえる状況が、今も続く。やり切れなくなって時々それを忘れ、そうしてまた顔があげられる。その繰り返し。

心の内側がそんなふうに渦巻き続けるここ数ヶ月間。これまでの、そしてこれからの生き方について考えさせられながらも、僕はこの一冊をデザインすることに向き合っていました。

誰かの生き方(今回の場合は五味太郎さんでした)を知ることで、自分の人生を見つめ直すことがある。そう感じさせてくれる一冊でした。ぜひご高覧ください。(ä)

2020-06-18

福島県観光物産館:久保修さんのお土産袋

新型コロナウイルスの影響で、仕上げたもののなかなか発表できないでいた福島県観光物産館のお土産袋たち。終息のきざしがみえた去る6月12日、ようやく使用スタートになりました。感慨無量です。

以前のブログでもご紹介した、切り絵画家の久保修さん。作品集『久保修 切り絵画家の半生』(淡交社刊)のデザインをあをぐみが担当したご縁で、福島県観光物産館のお土産袋のデザインも、引き続きお手伝いさせていただきました。






紙袋6種類、ビニール袋9種類、包装紙の全16種類……こうしてみるとけっこうなボリュームですね。福島県の地域にちなんで制作された久保さんの切り絵7作を組み合わせながら、最適のかたちでデザインしていきました。地元の新聞「福島民報」にデザインモチーフが詳しく掲載されたので、そちらもぜひご覧ください。

お土産を買う楽しみに加え、買ったお土産のサイズに合わせ、久保さんの作品を集める楽しみも生まれるようにと、できるだけデザインが重複しないようにしてあります。
とっておきたくなるような袋をデザインすることが、結果的に資源を無駄にしないことにつながるんじゃないかなあと願いつつ。



福島県観光物産館にはしばらくの間、久保さんの作品が展示されているため、訪れる楽しみがあります。全国的に言えることですが、自粛要請によって観光業界はかなりのダメージを受けているので、この久保さんの紙袋が福島の観光を盛りあげることにつながるとうれしいです。(ä)

2020-06-03

あをぐみÖの読書日記「皮膚と心」

 いい齢をして「とびひ」に感染。肩から背中にかけて赤黒いテンテンボチボチが踊り、草間彌生さんもびっくりの「水玉脅迫」ぶり。コロナの不穏が、こういうカタチで出てきたか、あーあ。

 こうなったらあれを読むしかない! と思って引っ張り出してきたのが太宰治でありました。その名も「皮膚と心」。皮膚病をわずらっちゃった女性の独白調による短編です。

 まあ、なんと言うか甘い。「おぬし、甘いのう」の「甘い」ではなく、スウィートな甘さです。恋に恋すると同様に、悩みに恋する女性のとめどなく流れる感情の渦。苦悩に淫している感じが甘さを醸します。「皮膚病を患った女」という意味では主人公と同じ立場ですが、まあ、なんと言うかわたしとは十億光年くらいの距離感がある、心理的に。……と一瞬思ったものの、感情の内容はともかく、何か非日常的(ネガティブ)なことに出くわし、くよくよと感情の渦に飲み込まれていくのは、実は同じかもしれない。

 主人公の場合、その感情が「女であることの因果」みたいなところにまでどっぷり堕ちていきます。その極みが、終わりの方で発射される「プロステチウト」発言。でたな、カタカナ一言爆弾。『三四郎』におけるストレイシープ(これも女性(みねこ)の発言ですね)同様、くさびのように心に撃ち込まれる威力のある単語です(意味は。。。調べてみてください)。どんな”おたふくのおばあさん”(主人公、28歳なんですけどね)でも、女は女。醜い皮膚病は、唯一のよすがを奪われる残酷な仕打ち。残った道は堕落か自殺か、というところまで思考が進みます。「健全な体に健全な魂」というけれど、逆も真なり、なのかも。ため息。
 ネガティブに陥る自分を客観的に見せてもらった気がして、正気に戻るきっかけをつかみました。おかげさまで。やはり本は効くなあ。

 ところで、女性の苦悩とは全く別の次元で、今回この短編を身近に思えた発見がひとつ。主人公の夫がデザイナーなんですよ。そうだったっけ? 昔読んだ時にはスルーしてました。とても気に入っていた図案を、まさか自分の夫が手がけていたとは、と気づいたときの女性の描写。このあたりに今回はキュンときました。はは。

 ちなみにこの短編、新潮文庫の短編集『きりぎりす』に収録されています。写真はかつてあをぐみがデザインした「別冊太陽 太宰治」。
ああ、もうすぐ桜桃忌ですね。(ö)


2020-05-11

あをぐみÖの読書日記

COVIC-19のせいで時間ができたのを機に、読書な日々。

もともとこもり気味の生活を送っているため、パンデミック下で様相が大きく変わったりはしてないのですが、漠然とした不自由や重い空気に包まれ、真綿で首を絞められているような今日この頃。
そこで、この本を読んでみた。自分の不安を他人の不安で上塗りしてやろうというわけです。毒を持って毒を制す的な?

不安の書【増補版】
Livro do Desassossego
発行:彩流社
著者:フェルナンド・ペソア
訳者:高橋 都彦


前情報なくタイトルと装丁で選んだ一冊ですが、これがまあ、今の空気感にぴったりそぐう一冊で、我ながら選書力の高さに苦笑。
情報によれば、ポルトガルの詩人・ペソア最大の傑作とされる『不安の書』の完訳であり、”待望の復刊!”とのこと。日記のようにも、創作のようにも、詩のようにも感じられる不定の断章で構成されています。

読みはじめてすぐ、「よくもここまで不安にかられ”られる”ものだ」と感心。日記のようではあるけれども、飽きもせず毎日ぼやき、つぶやき、うめき、世を呪う。……そういう断片が延々と続く(結構分厚く、600ページ超)わけで、早々に投げ出したくなりそうになったのだけど、そこはさすが詩人。漠然とした不安をつぶやくために操る言葉の数々は見事に多彩で、それがまた逆に呆れるというか……。
読めば読むほど訳者の根気とご苦労が思われ、高く尊敬の念を抱きます、マジで。

で、気付いたのですが、この本に正しい読み方があるとすれば、気が向いた時にパッと開いたページを”啓示”として受け取ることかも。「今日の星占い」的な感じで読む、「今日の不安」。そう思うといろいろな言葉(不安)との出会いが断然楽しくなる。

以下、2、3の短いフレーズを抜粋。

わたしは道徳を守りつつも善いことをしないが、わたしに善いことをしてくれとも要求しない。
(共感~!)

わたしの理想はすべてを小説で体験し、実生活で休息する。 
(これも共感。バーチャルに生きる幸せと閉塞)

支配するには感性に欠けている必要がある。
(例として挙げられているのは政治家、司令官のほか、美しい女性。。。こういうユーモアは、ペソアの武器のひとつだと思う)

今後もそのやりかたで、この分厚い一冊を、パンデミック収束までの羅針盤として活用していきたいと思います。どんな珠玉のぼやきに出会えるかしら、ワクワク。毒はやはり毒に効くらしい。(Ö)