先日亡くなられた谷川俊太郎さんの「その日」は、広島に原子爆弾が投下された8月6日を詠んだ詩。
だけど、öにとっては30年前の1月17日に重なる。
その日私はそこにいなかった
確かに「そこ」にはいなかったけれど、遠く離れた港町・横浜で呆然とTVの画面を眺めていたことは鮮明に覚えている。その後すぐ、通っていた学校が募集していた「災害ボランティア隊」なるものに手を挙げ、生まれて初めて神戸の地に足を踏み入れた。それまでのイメージでは、キラキラしておしゃれで素敵だった港町・神戸に。
学校の派遣は1週間足らずだったので、その後すぐにUターン。累計で3ヶ月ほどを神戸市長田区の中学校で過ごした。仲良くなった人もいた。
えっちゃんは埼玉在住の演劇人。
数年後に見に行った舞台は、東京・中野の廃映画館で上演されていて、瓦礫を踏み分けながら客席に着いたら、舞台上に出てきた男がキムチを頭から被ったので、劇場中が強烈な匂いで充満。「げーる・でぃすこー♪」というノリノリの歌とともに踊るえっちゃん。歌にのって変なゲル状のものがばら撒かれ、足を滑らせるのではないかとヒヤヒヤしながら建物を出たら、うっすらと月が出ていたのを覚えている。
うしやまくんは、本名は全然「うしやま」じゃないのに、なぜかそう呼ばれていた。
神戸を後にする時、青春18きっぷで途方もなく長い寄り道をして帰ったのだけど、道中に訪れた彼の実家で会ったお父さんはボディビルダーで、茶の間でムキムキの上半身を披露してくれた。ボディビルダーを生で見た最初で最後の経験。
長尾のおっちゃんは、家が被災したので家族みんなで校庭のテントに暮らしていた。
いかにも元ヤンなおやじで、エアブラシで椰子の木とかが描かれたミニバンに乗っていて、カーステレオからはいつも「セクシャルバイオレットNo.1」か「悲しい色やねん」が流れていた。
一度、長尾のおっちゃんが「おまえらよう働いとるから」といってご褒美に、ハーバーランドに連れて行ってくれた。
えっちゃんも牛山くんもわたしも、配給品の作業服の分厚い上着を着ていて、わたしにいたっては、どこかの県の人が炊き出し用にとプレゼントしてくれたマグロを捌いた時の返り血がべったりついているし、えっちゃんもうしやまくんも、焚き火で袖や裾が焦げていてひどい有様。おまけに4人ともまともに風呂に入っておらず、髪がレゲエ状態。
そんななナリで訪れた夜の港は、本当に輝いていた。神戸の底力を見せようと、既にライトアップが復活。ミニスカート、ブーツ、巻き髪のおしゃれな神戸ギャルたちが、いかした彼とデートを楽しんでいて、その光景があまりにキラキラしていたので、小汚い我々は何だか感動してしまった。
もういっかい谷川さんの詩。
その日私はそこにいなかった
私はただ信じるしかない
怒りと痛みと悲しみの土壌にも
喜びは芽生えると
(後略)
あの日から30年。久しぶりに訪れた神戸の中学校は、確かにここだ、ということはわかるものの、周りがあまりにも変わっていて、狐につままれたように立ち尽くした。でも少し歩くと、ああ、こうだったかも、というところにも出合えてホッとする。
「いかなごのくぎに」を送ってくれた横井のおばちゃんは元気だろうか? けーすけちゃん(犬/雌)はもう生きていないかもしれないな。
震災復興の文化的シンボルとして2002年に開館した兵庫県立美術館を見上げる。カエルが嗤っていた。
ここでも今、30年をひもとく展覧会が行われている。(ö)