2025-04-14

望月桂 自由を扶くひと@原爆の図 丸木美術館

2025年4月5日(土)から『原爆の図 丸木美術館』(埼玉)でスタートした展覧会「望月桂 自由を扶くひと」

本展のフライヤーとポスター、展覧会ZINE(限定部数ゆえ先着順配布ですが、なんと無料!)のデザインを担当しました。


共催に“安曇野市教育委員会”とあるのでお気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、望月桂は長野県安曇野市に生まれ、あをぐみが拠点を置く松本市とも縁のある人物(松本の高校で美術教員をしていました)。

アナキストとして知られますが、美術の文脈ではほとんど注目されてきませんでした。


この展覧会は、企画担当の足立元さんが代表を務める「望月桂調査団」によって実現したもので、芸術家としての望月の活動に光を当て、彼自身とその周辺を掘り下げる野心的な内容となっています。

デザインをするにあたり、あをぐみäも作品の移送に参加してみましたが、活動にかけるメンバーの情熱のすさまじさを目の当たりにして思わず姿勢を正しました。


フライヤーやポスターでは、望月の絵画作品を全面に押し出すこと、美術家・風間サチコさんの手による展覧会ロゴを効果的に見せること、そしてこの2つをうまくつなぎながら、展覧会自体の世界観を印象的にデザインすることが、自分の役目となりました。

3種のメディアに使う紙を統一し、本来なら破棄されてしまう廃インクを調合・利用して、一風変わった質感と色味の印刷を実現。独自の世界を表現しています。


会期中の5月17日(土)には、調査団によるシンポジウム「望月桂を探求する」、5月31日(土)には調査団代表の足立元さんとライターの武田砂鉄さんによる対談「望月桂を発見する」が開催予定。

どんな話が飛び出すのか、楽しみが募ります。


この展覧会をきっかけに望月桂が多くの人に知られ、さらに情報が集まって理解が進んでいくことになるのでは、と期待大。

膨大な資料がまだ残されていることもあり、会期中も会期後も「調査団」のさらなる活動は続きます。


会期は、7月6日(日)まで。ぜひ足をお運びください!(ä)

2025-02-23

『そっちから わたし、どんなふうに みえている?』(かがくのとも 2025年3月号)

あをぐみがデザインを担当した『そっちから わたし、どんなふうに みえている?』(かがくのとも 2025年3月号)をご紹介します。



『さんかくで いえを つくろう』『ならべかえ -ましかくの へんしん-』と続いて絵本をデザインするのはこれで3冊目。

「▲」「■」ときたから今回は「●」・・・ではなく、「見てるわたし」と「見えているわたし」が交互に描かれることで、わたしの立ち位置を見つめなおせるような絵本です。


文は越智典子さん、絵は堀川理万子さん。

文章が添えてある見開きと絵だけの見開きが繰りかえされるのですが、このリズムによって、深く文章に向き合えるというか、深呼吸するように絵の余韻を味わうことができる気がします。ページ数に収まらない大きさの情報量があるなあ・・・とデザインしながら感嘆しました。


僕にも、子どものころから現在までずーっと手元に残っているたいせつな絵本がありますが、この絵本も誰かにとっての「それ」になる絵本だと思います。


「かがくのとも」は月刊誌なので、書店で手に取れる時間も残りわずか。気になる方はぜひお近くの書店へダッシュで! とはいえ、バックナンバーをあつかっている本屋さんもありますので、ぜひ探してみてください。


あなたも表紙のあの子と目があいますように。(ä)

2025-01-19

その日私はそこにいなかった

先日亡くなられた谷川俊太郎さんの「その日」は、広島に原子爆弾が投下された8月6日を詠んだ詩。

だけど、öにとっては30年前の1月17日に重なる。


その日私はそこにいなかった


確かに「そこ」にはいなかったけれど、遠く離れた港町・横浜で呆然とTVの画面を眺めていたことは鮮明に覚えている。その後すぐ、通っていた学校が募集していた「災害ボランティア隊」なるものに手を挙げ、生まれて初めて神戸の地に足を踏み入れた。それまでのイメージでは、キラキラしておしゃれで素敵だった港町・神戸に。


学校の派遣は1週間足らずだったので、その後すぐにUターン。累計で3ヶ月ほどを神戸市長田区の中学校で過ごした。仲良くなった人もいた。


えっちゃんは埼玉在住の演劇人。

数年後に見に行った舞台は、東京・中野の廃映画館で上演されていて、瓦礫を踏み分けながら客席に着いたら、舞台上に出てきた男がキムチを頭から被ったので、劇場中が強烈な匂いで充満。「げーる・でぃすこー♪」というノリノリの歌とともに踊るえっちゃん。歌にのって変なゲル状のものがばら撒かれ、足を滑らせるのではないかとヒヤヒヤしながら建物を出たら、うっすらと月が出ていたのを覚えている。


うしやまくんは、本名は全然「うしやま」じゃないのに、なぜかそう呼ばれていた。

神戸を後にする時、青春18きっぷで途方もなく長い寄り道をして帰ったのだけど、道中に訪れた彼の実家で会ったお父さんはボディビルダーで、茶の間でムキムキの上半身を披露してくれた。ボディビルダーを生で見た最初で最後の経験。


長尾のおっちゃんは、家が被災したので家族みんなで校庭のテントに暮らしていた。

いかにも元ヤンなおやじで、エアブラシで椰子の木とかが描かれたミニバンに乗っていて、カーステレオからはいつも「セクシャルバイオレットNo.1」か「悲しい色やねん」が流れていた。


一度、長尾のおっちゃんが「おまえらよう働いとるから」といってご褒美に、ハーバーランドに連れて行ってくれた。

えっちゃんも牛山くんもわたしも、配給品の作業服の分厚い上着を着ていて、わたしにいたっては、どこかの県の人が炊き出し用にとプレゼントしてくれたマグロを捌いた時の返り血がべったりついているし、えっちゃんもうしやまくんも、焚き火で袖や裾が焦げていてひどい有様。おまけに4人ともまともに風呂に入っておらず、髪がレゲエ状態。


そんななナリで訪れた夜の港は、本当に輝いていた。神戸の底力を見せようと、既にライトアップが復活。ミニスカート、ブーツ、巻き髪のおしゃれな神戸ギャルたちが、いかした彼とデートを楽しんでいて、その光景があまりにキラキラしていたので、小汚い我々は何だか感動してしまった。

もういっかい谷川さんの詩。


その日私はそこにいなかった


私はただ信じるしかない

怒りと痛みと悲しみの土壌にも

喜びは芽生えると

(後略)


あの日から30年。久しぶりに訪れた神戸の中学校は、確かにここだ、ということはわかるものの、周りがあまりにも変わっていて、狐につままれたように立ち尽くした。でも少し歩くと、ああ、こうだったかも、というところにも出合えてホッとする。






「いかなごのくぎに」を送ってくれた横井のおばちゃんは元気だろうか? けーすけちゃん(犬/雌)はもう生きていないかもしれないな。


震災復興の文化的シンボルとして2002年に開館した兵庫県立美術館を見上げる。カエルが嗤っていた。


ここでも今、30年をひもとく展覧会が行われている。(ö)